春の生まれ

  • 2012.04.23 Monday
  • 21:52

お仕事で墨汁で絵を描くことが多いのですが、うっかり手につくと、
墨汁とは、爪の隙間にはいりこみ、洗ってもとれません。
きたない手をスプリングコートにひゅっと隠しながら帰ります。


今年のゴールデンウィークは存分に遊ぶつもりをしています。
前半は長野県へ、大王わさび農場と松本城とおそばのために。
後半は京都へ、下鴨神社と金閣銀閣、またコーヒーと妖怪と本屋とお酒のために。
なんてのんびりする気なんでしょう。



桜がロックで果て、すみれが子守唄を、菜の花が合唱する。
ジャージでずかずか歩く女の子たちも恋をしていて、ふふと笑いかけそうになる。
わたしが愛するにはもったいないようなひとがここにいて、春が巡ってゆくのが見える。

生まれてきてよかった。春に生まれてこれてよかったよ。

クレイジー

  • 2012.04.10 Tuesday
  • 21:17

風邪をひいて鼻声になって、ドライブ中かけたCDがハナレグミだった。
鼻にかかった永積さんの声に似た気がして、うれしくていっぱい歌った。
(Crazy Crazy Crazy Love 夢にまで見るほど イカレちまってるぜ)
ガレージに着くころ、風邪で傷んだ喉はさらにぼろぼろになっている。
わたしの仕事道具は声ではないから、たまにはこういうやんちゃもいい。


チョコレート屋さんのロゴを作ったり、おかき屋さんの紙袋を作ったり、
お豆腐やさんの地図を作ったり、している。これからもしばらくずっと、する。
図工のようだと帰り道に思う。
小学校のとき、体育の時間は足手まといでも、図工の時間はヒーローになれた。
やっぱり、こっちの道に、あるいてきてよかったよ。
だいじょうぶだよ、と幼いわたしに言ってあげたい。
信じて。ずっとそうしていられるよ。
でも本当は、幼いわたしは、誰に教えられなくても、だいじょうぶだって知っていたのだろう。


春の陽気。ばかばかしい。まったくいかれている。
虹色のむらさき色の湖だったので、もうなんにもいらないだなんて思ってしまった。


このごろ、たましいのことを考える。
はるか、わたしの頭では理解しえぬほどはるかにながい、ながい、果てしない
時間を永遠に旅している、たましいのことを。
輝きつづけるために鍛錬をくりかえし、いまはわたしに宿ってくれた、健気なもののことを。
きみが覚えきれないほどの幸福を一緒にすごそう。
こぼれてしまう、愛を。

松の実クッキー

  • 2012.03.29 Thursday
  • 15:27
行く一月、逃げる二月、去る三月。とは、誰が最初に言ったのだろう。
わたしは母に教わって、毎年はじめの三ヶ月は、この言葉を噛み締める。
うまいこと言ったものだ。


ホワイトデーに西光亭のクッキーを頂いた。
あいくるしいリスが描かれた箱に入った、手作りの、きちんと甘いクッキー。
クロッキー帳を破って二つ折りにして、お皿がわりにして食べてしまう。

白くてちっちゃな本棚が四つある。ここから本がはみ出すときは、
いずれかの本を手放すことにしている。これ以上の本は持たない。
幸いにしてまだ三段も空きがあるのだけれど。

おじいちゃんの遺品のベッドに、ニュアンスの違う白色の寝具。

二十歳のころ大学を途中からさぼって遊びに行った神戸。
そのときギャラリー見つけた羊のポスターは伊勢田雄介さんの絵。

中学校の英語の先生がもっていたのと同じCD・MDプレイヤー。
最近は星野源かハナレグミのCDしかかからない。

窓はふたつでカーテンはどっちもくすんだピンク色。
発作的に買ってしまったアンティークのデスクによくあう。

小学生のとき買ってもらった、白い額縁のなかの三羽の小鳥の絵。
1,2年間欲しいと母に言い続けていたら、その店が閉店することになり、
ワゴンセールに出たのだ。母はよかったねと言ってそれを迷わず買ってくれた。
見上げないと母の顔が見えないくらい小さかったころ。
この絵が壁からはずされたことは以来一度もない。

この部屋にわたしはもうしばらくいることになった。
大学を出たら家も出るのだと信じるように思い込んでいたけれど、
いろいろなことを考えて、ここにいるのが一番良いと思った。


もうすぐ自分でちゃんとお金を稼げるようになる。
わたしはわたしのことを食べさせてあげられるお金をちゃんともつ。
そのことをずっと夢見てた。
自分の命を自分の力で永らえさせる力をもつ日がくること。
もちろんその力はお金だけではまるで成り立たないのだけれど、
自給自足の予定がいまのところないわたしには、欠かせないたいせつなもの。


クッキーもう1枚食べよう。

旅先

  • 2012.03.12 Monday
  • 14:50
春の気配を感じると思っていたら、今朝は雪が舞っている。
薄着はもうすこし先かしら。

最後の春休みを過ごしている。

中学生の頃、「いつか一緒にヨーロッパに行こう」と言い合った友達と、
イタリアとパリへ。8年の歳月を経て果たされる約束は甘美だった。
お決まりの「冷静と情熱のあいだ」のドゥオモにも登った。
長友選手の暮らすミラノの街も歩いた(しかしその頃長友は日本で試合をしていたらしい…)。
おいしいピザやお酒、すいすい飲めるエスプレッソ、朝食のクロワッサン。
美しい教会、寺院、鐘楼に橋。貴重な美術品の数々。
写実主義の油絵と宗教画は、もう金輪際見なくてもいいと思えるほどに圧倒された。
建造物はみな大きく、装飾的で、それらは心が追い付かないほどに
美しかったけれど、どうしようもなく俗っぽかった。動物的ではなく、人間的だった。
慎ましやかであることや、足るを知るというこころ、キリスト教ではなくて仏教のこころ、
自然とあわせること、きりりとした山の空気がほしくなった。

それで、あからさまなのだけれど、明日は高野山に行くことにした。
お寺に一度泊まってみたかったこともあって、せっかく余裕のある春休み、
京都ではなくわざわざ少し足を延ばしてでも行きたいところとして、高野山へ。
本は、もっていかないでおこうと思う。


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生きるという名の

  • 2012.02.07 Tuesday
  • 13:38

こんにちは。これを読んでくださっているみなさん、お元気でしょうか。
ここ、更新頻度がものすごくのんびりになってきているね。
いつの間にやら年も変わり、冬も深まり、暦の上では早くも立春。

いろいろなものが、終わり、変わり、始まり、していく春がくる。
日本中で、おそらくいちばんたくさんの涙が流れるころ。


先日無事、卒業制作展を終えた。
コンセプトを決定するまでに本当にたくさん悩んでしまい、それを形にする
制作作業にあてる時間がいちじるしくすくなく、最後は大慌ての一月だった。

「生きるという名のケーキ」


いつも考えているのは、生きるということ。
生きるということの、官能的な甘さのこと。
やさしいこと、くるしいこと、さみしいこと、欲すること、傷めること、病むこと、死ぬこと、
食べること、飲むこと、眠ること、起きること、愛すること、生まれること、忘れること、
つくること、うしなうこと、壊すこと、守ること、甘えること、信じること、逃れること、歌うこと、
描くこと、書くこと、はたらくこと、知ること、伝えること、つながること、触れること、離れること、
ぜんぶ、ぜんぶ。
ぜんぶ、いとしい。あまくて、いとしい。

だからケーキにして、見てもらった。それだけじゃ足りないから、言葉も、添えて。

いろんな人が作品の前で、足をとめてくれた。
わたしを知るひとも、知らないひとも、その貴重な一生の時間の一部を、
わたしが作ったものを見るために、くれていた。
それを見て、地平線が見えるような広い場所に立っているような心地になった。
うれしいとかなしいはとありがとうはひとつの感情になった。



いつも大切にしていることを、好きな形で表現できて、ほんとうによかった。
デザイン科だけど、商業的なデザインではなかったし、どっちかというと
自己表現のアートにいってしまった気もする。
でも、「元気をもらえました、ありがとう」と言ってくださる方がいた。

それで、この作品をやってよかったなとも思ったけれど、もっととんで、
生まれてきてよかったな、と心から思った。ありがとうは、わたしの科白だったのに。




作品を作っている時間も、大変だ大変だとはいいつつ、ほんとうに幸せだった。
四年間ともにいたみんな、みんな、がんばっている姿が見れて、
一緒に食堂にいったり、お菓子をたべたり、ふざけたりできて、助けてくれて、
みんなの声がして、同じゴールにむかってそれぞれが何かを創作しているなんて、
なんてきらきらなんだろう。みんなのいる空気にはきれいな色が見えた。
ずっと卒展が終わらなかったらいいのにな、と何度も思った。

ここ最近はずっとずっと胸がいっぱい。
みぞおちのあたりに通された紐が、きゅっ!としぼられている。
時間に味があるのなら、甘くて、とろける。少し酸っぱい。

ずっとここにいたいけど、かなわないからこんなにもあまくて、きれい。



卒業まであとすこし。もうすこし。お別れのことばは、まだ、はやい。

あいのしょうたい

  • 2011.11.21 Monday
  • 23:18

わたしは卒業制作の一部で、「愛」を表現したいと思っているのだけど、
おわかりのとおり、可視化がとても難しい。
人によって解釈が異なり、価値も違い、その形式も、深さも、まちまちすぎる。
それを人に見てもらう作品のテーマにするのは、ほんとうに難しいことだ。
いや、案外それはシンプル極まりないものなのかもしれない。
しかし単純だろうが難解だろうが、愛の可視化は、今のわたしにとってそう容易い作業ではない。



悶々とするわたしに、先生は、「木村の一番好きなものはなんや」と言った。
一番はきめられない、と言うと、
「自分の命に替えても存在してほしいくらいのなにか」と訊かれた。


「土」


何秒か悩んで、わたしの口から自然に出てきた答えはそれだった。
自分でも、びっくりしていた。けれど、すごく自然に答えていた。

「土と、そこに棲んでいるミミズとかダンゴムシとかカエルとか、
 そこに根をはってのびている木や花とか、露だとか、
 もしわたしの命と引きかえにそれが続いていくのなら、
 ぜんぜん、命なんかくれてやってもいい」

とも言った。わたしが。おどろくべきことに。
でも先生の問い、とても上手な問いだったと思う。
先生は「神様みたいなこといいよるなあ」と笑ったけれど、
これ以上わたしがわたしを納得させられる答えはきっとほかになかった。


黒く、湿り気を帯びている。
命をはぐくみ、命を吸い、命を生み、根を支え、餌を与える。
わたしの想起する、愛のすがた。



でもこの結論を、制作に直接応用できるかと言われると、
ちょっと困るのだけど(!)、なんだか新鮮だった。


あなたの愛は、どんな姿をしているのでしょう。

ずっと限界と100年

  • 2011.10.20 Thursday
  • 16:32
お久しぶりです。
久しぶりすぎて何を書こうか、少々、戸惑っております。
正直、Twitterに、けっこうはまってしまい、こっちを忘れておりました。
不覚、不覚。いざというときは、アナログなほうが生き残るんだぞ。



「ずっと」、という言葉がある。
時間的に継続してやまない、という意味の「ずっと」。
でも、大方この世のものには限りがあるので、
「〜まで(ずっと)」という念押しのおまけがついたりする。

「ずっと」が長いほど嬉しい、という前向きな例でいうと、
ずっと使い続けたい服や、ずっと持っていたい本に、ずっと傍にいたい人。

服だったら、似合わなくなるまでずっと。本だったら、飽きるまでずっと。
人だったら、死ぬか別れるまでずっと。

こういう言い方はどれも具体性を伴っていない気がして、なんだかぼんやりしている。
かといって、契約社員のように「あと何年」なんて今決めておく必要もないし、不確実。
だからいつかくる終わりのことも、捉えられないふわふわのままで、ただ、
いつかくる「死」と、それまでの「ずっと」は、わたしのなかでは遠く離れたべつのもの。




ある日恋人はこう言った。
「あと長くても100年はないよ」
「この1年がもう100回もないよ」

その言葉と同時に「ずっと」は瞬く間に輪郭をもち、手に取れる実体として現れた。
前から透明巨人としてそこにいたんだけど、初めて目に見えるようになりましたってふうに。

100年という単位は、絶妙だった。
推し量れないほど永い年月でもないけれど、わたしたちの多くの寿命はそれに満たないだろう。
ましてわたしは、20歳を超えている。
現在の医療技術では、あとこの身が100年もつ可能性は、皆無に等しい。

(いま、事故や不測の重病を考慮していないが、そういうことの可能性は頭では
わかっても、実質的な感覚をもって理解するのは日常ではむずかしいものだ)



100年、ないのか。そうか。

それはわたしにとってあまりにも具体性のある「ずっと」の限界の表現だった。
そしてなにもかもが、いとおしさのかたまりになった。


今日もわたしは、ない100年を、齧ってる。きっとあなたも。

白い牙とやさしい藍

  • 2011.07.29 Friday
  • 19:34
こんにちは。なんだか久しぶりな気がするなあ。
ここ二か月のあいだで、いろんなこともありました。

まず今月あたま、春からの就職先が決まりました。
憧れていた、デザイナーと呼ばれる職業に、就くことになりました。
わたしは、大学は確かに芸術と名のつくところに籍を置いておりますが、
デッサンを死ぬほどしたこともないのでデッサン力はゼロに等しいですし、
特別絵を描くのが上手というわけでもありません。
でもやっぱり、かわいいとかきれいとか、どうしてか心に響く視覚的なものが好きで、
好きでそういうことに携われるならいいなあ、と、ぼんやりとだけは思っていた。

わたしよりずっとデザイナーに相応しいひとは、この世に溢れるほどいるだろう。
とは、ずっと前から気付いていたことで、本当のことでもあります。
でも、そんなわたしがその機会を手に入れたこともやっぱり、本当のようなのです。

だから、まっさらなきもちで食らいついていく。

このひとつの地点にやってくるまで、喚いて泣いたり、電話ごしに泣いたり、
恋人の胸で泣いたり、電車で泣いたり、道を歩きながら泣いたり、
車を運転しながら泣いたり、とかくよくよく泣いたもの。
それでも干からびなかったことはわたしの力ではなくて、みんな、
人も動物も花も映画も本も朝も夜も、みんなありがとうと思う。ありがとう。

こんなことをいうのは、ホントは気恥しいから、好きじゃないけれど。

ありがとう。


夏がやってきて、わたしの緑色の部分はつやつやとのびのびと上へ。

Hydrangea

  • 2011.05.25 Wednesday
  • 09:37

もうじき、このあたりも梅雨入りする。

紫陽花、その英名が好きだ。
勢いがあってリズムもいいし、ア、で終わるところは色っぽい。
そして、強い毒をもち、浮気や移り気といった、非情ともいえる花言葉さえ与えられている。


今朝、夢を見た。恋人が三人いる夢だ。
その辻褄を合わせようと、嘘が嘘を増幅させ、私からは多くの人が去っていく。
みながみな、私にだけよそよそしい世界ができあがっていく。
携帯電話の音で目が覚めた。
夢の世には出てこなかった、こっち側の恋人だった。ちょっと泣けた。


で、そんな朝の朝ごはん。
ヨーグルトをでっかいカフェオレボウルの半分ほども入れ、よく混ぜて滑らかにする。
付属品のお砂糖を、けっこうたくさん入れたりもする。
バナナ、林檎、葡萄、キウイ、苺など、家にある好きな果物を切って、
ヨーグルトの上に円を描くように盛る。
真ん中に、グラノーラをざばあとのせる。
仕上げは、蜂蜜を好き放題に。
ちなみに、使うヨーグルトは「恵」がやさしくて好き。今日は「ブルガリア」だったけれど。


食べたり飲んだり眠ったり、笑ったり泣いたり、勉強したり怠けたり、
好きになったり嫌いになったり、傷ついたり傷つけたり、打ち明けたり隠したり、
嘘をついたりつかれたり、親切にしたりされたり、愛があったりなかったり、
暮らすことは、目まぐるしい。
それでも。


今年は庭に咲く紫陽花を使って、ドライフラワーを作りたいと思っている。

Holiday

  • 2011.05.04 Wednesday
  • 11:14
いつのまにやら22年目の日々に突入しました。
お祝いの気持ちを、みんな、ありがとう。
ここにいていいんだな、と毎年実感する日です。
そして生を、理屈抜きでありがたく思う日でもあります。

生まれてから8000日以上も、お日さんが昇って沈んでを過ごしました。
なかなか、たくさんだけど、そんなにたくさんは生きた実感はないなあ。

もっと生きるぞ。


近頃は、就職に対する戦闘態勢がちょっとゆるまって、まあ、先月は休戦です。
そろそろ、もう一度動き出そうとは思いますが、闘うのはもういやです。痛いのはなあ。
よく考えて、よく寝よく食べよく働き、自分の正しいと思うほうに歩を進めていけば、
そう、大きくまちがえることはないんじゃないかな、という気がしています。

もちろんそれが悪徳であったり、直接迷惑につながるようなことはだめだけれど、
そうならない範囲で、むしろ人を喜ばせることができたらもうけもの、の範囲で、
自分の好きにしたいようにしたいなあ、と思います。

それはむしろ、甘くなく、厳しいことだとも、気付いています。

でも、挫けても転んでも、わたしはその光のほうにしか走れない気もするのです。




昨日は海に。
聴き、見、触り、嗅ぎ、舐め、吸い込み、感じました。
陳腐な話だけど、ちいさいことはどうでもよくなって、
細胞がぜんぶポップコーンみたいにぐるりんとひっくりかえって、
まるでわたしのすべてが別のに変わってしまうような爽快。

麻の服はばたばたと潮風に騒ぎ、燕が頭上を旋回し、足下で貝殻は割れて、
潮騒に声をかき消され、傷に沁み、そうして海を体中にしみこませて帰ってきたから、
またしばらく長く、ひどく生きものらしくいられるのでしょう。

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