お久しぶりです。
久しぶりすぎて何を書こうか、少々、戸惑っております。
正直、Twitterに、けっこうはまってしまい、こっちを忘れておりました。
不覚、不覚。いざというときは、アナログなほうが生き残るんだぞ。
「ずっと」、という言葉がある。
時間的に継続してやまない、という意味の「ずっと」。
でも、大方この世のものには限りがあるので、
「〜まで(ずっと)」という念押しのおまけがついたりする。
「ずっと」が長いほど嬉しい、という前向きな例でいうと、
ずっと使い続けたい服や、ずっと持っていたい本に、ずっと傍にいたい人。
服だったら、似合わなくなるまでずっと。本だったら、飽きるまでずっと。
人だったら、死ぬか別れるまでずっと。
こういう言い方はどれも具体性を伴っていない気がして、なんだかぼんやりしている。
かといって、契約社員のように「あと何年」なんて今決めておく必要もないし、不確実。
だからいつかくる終わりのことも、捉えられないふわふわのままで、ただ、
いつかくる「死」と、それまでの「ずっと」は、わたしのなかでは遠く離れたべつのもの。
ある日恋人はこう言った。
「あと長くても100年はないよ」
「この1年がもう100回もないよ」
その言葉と同時に「ずっと」は瞬く間に輪郭をもち、手に取れる実体として現れた。
前から透明巨人としてそこにいたんだけど、初めて目に見えるようになりましたってふうに。
100年という単位は、絶妙だった。
推し量れないほど永い年月でもないけれど、わたしたちの多くの寿命はそれに満たないだろう。
ましてわたしは、20歳を超えている。
現在の医療技術では、あとこの身が100年もつ可能性は、皆無に等しい。
(いま、事故や不測の重病を考慮していないが、そういうことの可能性は頭では
わかっても、実質的な感覚をもって理解するのは日常ではむずかしいものだ)
100年、ないのか。そうか。
それはわたしにとってあまりにも具体性のある「ずっと」の限界の表現だった。
そしてなにもかもが、いとおしさのかたまりになった。
今日もわたしは、ない100年を、齧ってる。きっとあなたも。