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    すずめをさらってにがした話
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      またものすごく間があいてしまった。
      けれどわたしの文章を楽しみにしてくれているという大切な
      人がいるので、またぼちぼち書いてみる。

      先週の金曜日、会社帰りに、雀を助けた。
      御池通を直進する車にぎりぎりよけられながらも、
      ころころころと、茶色い毛玉が激しく鳴きながら転がっていた。
      今にも轢かれそうな毛玉が、鳥のヒナだとわかったとき、不思議なもので、
      見事なタイミングでわたしの身体は道路に走り出していた。
      本当に切迫した状況のとき、ふだんではありえないような、力が発揮されるものだ。わたしの場合は、反射神経とタイミングを見計らう力が発揮されたわけだけれど。(つまり、ふだんいかに反射神経が劣り、車をよけて横断するのが苦手かってことだ。)

      雀のヒナはわたしの手から逃れようとさらに暴れたけれど、どうにか
      片手につかんで歩道に戻ることはできた。

      それまでは、よかったのだと思う。わたしはヒナをたしかに救出した。

      しかし問題なのは、そのあとのわたしのことで、
      帰宅ラッシュで自動車が激しく行き来する御池通、歩道には散歩の犬や、自転車がたえまなく走る。ここにこのヒナを放っていいのか。また車道に飛びでれば、今度こそ轢かれてぺしゃんこになってしまうんじゃないのか。
      という、不安がどっとおしよせて、手の中の小さい命を、置いていく勇気がでなかった。それでも、1,2分はすこし歩道で様子を見たのだ。母親の雀が迎えにくるかもしれないと思ったからだ。しかしヒナは飛ぶのがまだへたらしく、居酒屋のドアにばしん!とぶつかってへなへなとゴミ箱の隙間に落ちてしまった。それを見たわたしは、やっぱり我慢ができなくて、そのままヒナを連れて帰ってしまったのだ。

      わたしは会社から自宅まで、片道2時間弱はかかる。その間にも、たぶん電車の冷房からくる寒さから、ヒナはどんどんと弱っていくのが見てとれた。
      雀を拾ったが死なせてしまった、という話はよく耳にする。
      でも、それだけは嫌だった。とにかく、とにかく、死なせない。
      それだけを必死で考えていた。
      同じ死ぬにしても、たまたま車に轢かれたならばしかたない。
      たまたま野良猫に捕らえられたならしかたない。
      けれどわたしが拾ったから死んだというのでは、しかたないとは言えない。
      鳥が好きなのだ。大好きな生き物なのだ。すごく個人的な理由だ。
      でも、これだけ鳥が好きだ好きだと言っていて、この手の中で死なせることがあるか。
      せったいに生かせてみせる。
      電車のなかで、ぴい、と鳴かれるたびにソワソワしながらも、
      ずっとそんなことを考えていた。


      今はインターネットがあって、本当に便利な時代だ。
      図書館がしまっていようと、本屋にすずめの本がなかろうと、
      インターネットで「すずめ 保護」と検索すればあっというまに
      いろいろなアドバイスが見られるのだから。とにかく急いで熟読した。
      そして段ボールで借りの住まいを作り、湯たんぽを下にかました。
      100円均一で入手した鳥のえさをミキサーで粉砕して湯で溶き、食べさせた。
      食べさせた、と書いてしまえば簡単だが、ヒナはヒナであるから、
      まだ自分でえさをついばむという行為さえ知らないのだ。
      親鳥に喉の奥までつっこんでもらえて初めて食べるということができる。
      しかしある程度成長しているヒナのため、人は怖いという認識があるので、
      そう簡単に口を開けてはくれない。
      割り箸の先をへら状に削ったものを二本つくり、一本でくちばしをこじ開けて、そのまま割り箸あるいは指をかませておく。その間にもう一本のへらにえさを乗せ、こじあけた口の隙間からえさのへらをのどへ突っ込むのである。
      かわいそうだし、なかなかうまくいかないし、こぼすし、えらく大変な作業だった。
      こうして、えさは2,3時間おきに与える。
      湯たんぽも、さめないようにこまめに温めなおす。
      一日保護するだけでも、片手間にはできないような、
      こまやかで根気のいる作業だった。

      翌日になって、このヒナは右足が利かないということに気がついた。ぷらん、と力なく、神経が通っている様子ではない。色も変色しはじめていた。
      足がこうなったから車道に転がっていたのか、車と接触でもしてこうなったのか、わからないが、つかえない右足を補うように、立つときは右の翼を広げて地面につけて身体を支えていた。

      生きていけるのか。


      動物病院に電話をかけたが、なおすのは難しいと言われてしまった。
      さらに、成鳥になるまで育てれば、大丈夫だとも、言われた。

      けれども3時間おきにえさを与えられるような暮らしの者は
      わたしの家にはいなかったし、会社に連れていくとも考えたけれど、
      わたしの会社には猫が10匹以上暮らしていて、いくら気をつけても
      食べられてしまう可能性はぜったいに拭えない。

      足の怪我を認めるまでは、一刻もはやく拾った場所にヒナを返そうと
      考えていた。というのも、人の手を恐がり、数メートルは飛ぶことができるヒナというのは、「巣立ちヒナ」といって、巣立ち間近のヒナなのだ。
      親鳥が見守るなか、飛ぶ練習をしているヒナということであって、
      地面にいたとしても、必ずそばで隠れて親が見ているというのだ。
      それを、落巣したかわいそうなヒナと誤解し、保護してしまうことはよくあることだという。そしてうまく育てられずに死なせてしまうのだ。野鳥の会も、この誤認保護の防止をよびかけている。
      ということは、今回のことがあってわたしもはじめて知ったことで、
      場所が危険すぎるという理由であったにせよ、わたしがしたことは誤認保護
      にまちがいないと、拾った夜には気づくことができた。
      だからこそ、はやく、元の場所、親鳥のもとへ、返したかった。

      短い時間のあいだで、考えて、出した答えはやっぱり元の場所に
      返すということだった。足は怪我をしている。でもわたしにはそれがなおせない。育てていく自信はない。ならば自然にまかせたい。
      野鳥ははじめから自然のものだ。自然との付き合いかたにはいろいろな意見や考えがあるだろうし、今回のわたしのとった行動にも賛否両論あるとは思うけれど、わたしが思う最善のことは、自然の生き物は自然の力、運命、さだめに、なるべくまかせようということだった。車道で轢かれても、それは町中に巣を作った親鳥のもとに生まれた命のさだめかもしれないし、猫に捕らえられるなら、猫の栄養になるという自然界のピラミッドにかなうさだめだろう。


      日曜日の朝になった。
      ヒナはとてもとても元気で、早朝から、チュンチュンと鳴いている。
      親鳥を呼んでいる。
      雀の親鳥は、4,5日以内ならば我が子の声を覚えていて、いなくなっても、その間は探し続けているということだった。2日しか経っていないのだから希望はあった。
      ペットボトルの湯たんぽを底に入れた紙袋にヒナの段ボールをのせて、新聞紙とタオルで蓋をして、会社へ行くより早い時間に電車に乗る。
      たまたまサッカーのコンフェデ杯を見るために早起きしていた恋人も、電車で合流してくれた。小さな乗客を足下にのせて京都へ向かう。

      日曜日の朝とあって、御池通の車通りは格段に少なかった。1分間に1,2台通る程度だ。散歩の犬も自転車も、通りはするけれどごくわずか。
      拾った黒門通の銀杏の木の下に、段ボールの蓋をわずかにあけておき、
      2メートルほど離れたところでじっと見守った。
      周囲の鳥の声に反応して、例のチュンチュンと繰り返しながら、ヒナが外へ出た。
      車道のほうを向いているので、気が気でない。うめきのような不安の小さな声が、わたしからも恋人からもぼそぼそと発せられる。
      いざとなったら車をとめに走っていこうと、荷物をおいて動ける体制をとる。
      ヒナが飛ぶ。
      幸い車のなかった瞬間の御池通を、地上100センチで横断した。
      向かいの民家のドアに着地した、と思ったら歩道にくずれおちるように降りる。
      歩道のど真ん中に、ちょこんと、丸い毛玉がある図だった。
      いま自転車がきたら、いま犬がきたら、と、心配でしかたがなかった。
      「行こう、もうあとはどうなっても自然のことやから」とわたしは不安から逃げるように言って荷物をまとめようとした。恋人が、え、と驚く。
      「でも、お母さんすずめ、こんかったら、あのこ…」
      「そうやけど、そうやけど、もう見てられへん…」
      チュンチュンと、毛玉が大きく鳴いている。

      その数秒後のこと。
      わたしたちの背後、南のほうから。一羽の雀が飛んできて、真向かいの電線に留った。ヒナのいるほうをじっと見下ろしている。次の瞬間には、雀はヒナのところにいた。とんとん、とん、とその周りを跳ねたあと、確信したようにヒナの嘴に嘴をあててキスをした。
      そのあとは、もう、早かった。
      母親がすこしはばたくと、間髪入れずにヒナもそのあとに続いてはばたいた。
      母親は木の上に飛んでいくが、ヒナはうまくとべずに根元に落ちてしまう。
      親は素早く戻ってきて、ヒナの顔をみつめては、また飛ぶ。さっきよりは低い垣根へ。ヒナは垣根までは飛ぶことができた。散歩の大きな犬が通る。ヒナは垣根でじっとして、親はすばやくさらに高いところへ逃げた。犬が過ぎるとまた素早く親は戻ってきて、またヒナを誘導していく。ヒナは落ちそうになりながらも必死であとを飛ぶ。
      そうして、姿は見えなくなった。


      よかったなあ、と感激を伝えてくれる恋人のよこで、わたしは
      そのよかったの一言さえ言えずに泣いていた。
      それでもなんとか笑顔でハイタッチ。

      湯たんぽのペットボトルもタオルも段ボールもつぶしてゴミ箱に捨てて、
      わたしたちは軽くなった肩で朝ごはんを食べにいくために歩いた。
      命はほんとうに重かった。そして母親の愛は深かった。
      自然ってすごいと陳腐だがそんな気持ちが胸をみたした。
      この一週間、すずめの声がするたびに鼻がつうんとした。



      生きよ、生きよ。
      わたしも生きる。




      | nikki | 22:40 | comments(0) | trackbacks(0) |
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        先週の朝、地下鉄の駅で、すてきな鞄をみかけた。
        正確には、すてきな鞄を掛けた大学生くらいの男の子を見つけた。

        メッセンジャーバッグ というのか、デザインがとてもビビッときたもので、
        後ろから見て「おおおおー」「ほしいいいー」と思った。
        それでブランドロゴを読もうとするのだけど、タグが縦で、そこに横文字で、
        男の子は颯爽と(まあ朝の駅だから)歩くので、もう、まったくよめない。
        動体視力よ今すぐよくなあれ!と願ってもならないし、渋々あきらめた。


        そしたら、今朝も、同じ鞄(というか男の子)を見かけたのだ。
        木曜は1限からある、とかだろう。たぶん。
        でも来週も見つけられるとも限らないので、このチャンス逃すべからずと、
        まあ、端的に言って、あとをつけてしまった。そっと。
        いつもわたしは東側の階段をおりるんだけれども、鞄が西側いくもんで、
        なれない気持ちでついていってみた。
        さすればなんと、鞄はエスカレーターに乗ってくれた。
        しかも、鞄、静止してくれていた。目の前で。
        かっと目をみひらいて、タグの横文字を暗記。iPhoneにすばやくメモ。

        男の子、エスカレーターで立ち止まってくれてどうもありがとう。助かった。
        そしてすてきな鞄を教えてくれてありがとう。
        3分間くらいおっかけてごめんなさい。


        かばん、買おうかしらんと絶賛検討中。

        | nikki | 22:42 | comments(0) | trackbacks(0) |
        ピアノと煙草
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          母はグランドピアノをもっている。音大卒で、ピアノの先生もしていたからだ。
          その母のもっていた灰皿は、グランドピアノの形だった。
          陶製で、白鍵の隙間にはちゃんと煙草を据え置くことができた。

          彼女はスモーカーではないのだけれど、家にいつも灰皿があったのは、彼女の母が
          なかなかのスモーカーだったからだ。
          祖母は近所の家に叔父と住んでいて、大きな黒子が鼻もとにあって、
          派手で若々しい服をきて、よくうちに遊びにきてくれた。
          そして煙草をふかし、グランドピアノの中に灰をたくさんおとした。

          小さい頃はその灰皿があまりに当たり前で、何を感じることもなかったが、
          ふと思い出すとあんなに粋な灰皿はなかなか見かけない。


          祖母、3年前のクリスマスに死んでしまった。
          いってしまう数日前、視界の具合を確認する医師に
          むかって「いやあ、男前の先生が三人も見えてうれしいわあ」と
          つまりはぼやけているんだけれど、みんなの大笑いをかった。

          ピアノの灰皿を使うのはほとんど祖母だけだった。
          今だれかれのアクセサリーが入っているのだったろうか。


          祖母が死んだなんてほんとうは未だに信じがたい。
          もっとハグしたり、手をつないで買い物をしたり、スターバックスにいったり、
          恋の話をしたり、TVをみて笑ったり、すればよかったと思うのだ。
          しなかったわけではないけれど、いや、たくさんしたけれど、
          もっともっと手をつないでおけばよかったと、最近になって涙が出る。
          お葬式でももっと泣けばよかったと思う。なぜかあまり泣けなかったのだ。
          昔いじめにあって家でさめざめ泣いていたわたしに、
          「そんなことで泣かないで、あたしのお葬式のときにとっといてよ」
          と言っていたのに。(それをきいて悲しくてますます泣いたのだが。)



          ピアノの灰皿について考えていたらこんなに祖母の話になってしまった。

          文章もちょこちょこ書いておきたいものだね。
          | nikki | 20:47 | comments(0) | trackbacks(0) |
          青い王国
          0
            おひさしぶりに書きます。
            みなさま、お元気ですか。


            夏の新芽のようにむくむくと、今年も、逞しくなっている。
            この春先からぐーーんと大人になったかもしれない。

            思春期みたいで恥ずかしいことを書くようではあるけれども、
            「わたしなんて」がほぼ姿を消したということがこの身にあったということ。
            わたしなんて、の後に続けていたものは、もう思い出したくもないほど生々しい暴力だ。
            弱くて、目に映るなにもかもを傷つけながらでしか進めなかった暴力だ。

            ずっと消えないのだと少女のころより思い続けていたものは、すこしずつ、
            何かが育ち勝るように、あるいは何かに守られていくようにして、
            すう と、いなくなっていった。それは今もとても、ふしぎ。



            心から、血のつながりもしない誰かを愛したし、また同じに愛されたのに、
            毎日のようにはらーっと涙がでてくるのも、ふしぎだ。
            愛するひとに愛されていると思い至るたび、くずれおちる美しい古城がある。
            かなしい、と昔の人が書いたのは、こういうことだったのかしらん。

            まるで果ても底も見えぬうみそらのよう、青い、とても青くてきれい。
            | nikki | 23:01 | comments(0) | trackbacks(0) |
            春の生まれ
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              お仕事で墨汁で絵を描くことが多いのですが、うっかり手につくと、
              墨汁とは、爪の隙間にはいりこみ、洗ってもとれません。
              きたない手をスプリングコートにひゅっと隠しながら帰ります。


              今年のゴールデンウィークは存分に遊ぶつもりをしています。
              前半は長野県へ、大王わさび農場と松本城とおそばのために。
              後半は京都へ、下鴨神社と金閣銀閣、またコーヒーと妖怪と本屋とお酒のために。
              なんてのんびりする気なんでしょう。



              桜がロックで果て、すみれが子守唄を、菜の花が合唱する。
              ジャージでずかずか歩く女の子たちも恋をしていて、ふふと笑いかけそうになる。
              わたしが愛するにはもったいないようなひとがここにいて、春が巡ってゆくのが見える。

              生まれてきてよかった。春に生まれてこれてよかったよ。

              | nikki | 21:52 | comments(0) | trackbacks(0) |
              クレイジー
              0

                風邪をひいて鼻声になって、ドライブ中かけたCDがハナレグミだった。
                鼻にかかった永積さんの声に似た気がして、うれしくていっぱい歌った。
                (Crazy Crazy Crazy Love 夢にまで見るほど イカレちまってるぜ)
                ガレージに着くころ、風邪で傷んだ喉はさらにぼろぼろになっている。
                わたしの仕事道具は声ではないから、たまにはこういうやんちゃもいい。


                チョコレート屋さんのロゴを作ったり、おかき屋さんの紙袋を作ったり、
                お豆腐やさんの地図を作ったり、している。これからもしばらくずっと、する。
                図工のようだと帰り道に思う。
                小学校のとき、体育の時間は足手まといでも、図工の時間はヒーローになれた。
                やっぱり、こっちの道に、あるいてきてよかったよ。
                だいじょうぶだよ、と幼いわたしに言ってあげたい。
                信じて。ずっとそうしていられるよ。
                でも本当は、幼いわたしは、誰に教えられなくても、だいじょうぶだって知っていたのだろう。


                春の陽気。ばかばかしい。まったくいかれている。
                虹色のむらさき色の湖だったので、もうなんにもいらないだなんて思ってしまった。


                このごろ、たましいのことを考える。
                はるか、わたしの頭では理解しえぬほどはるかにながい、ながい、果てしない
                時間を永遠に旅している、たましいのことを。
                輝きつづけるために鍛錬をくりかえし、いまはわたしに宿ってくれた、健気なもののことを。
                きみが覚えきれないほどの幸福を一緒にすごそう。
                こぼれてしまう、愛を。

                | nikki | 21:17 | comments(0) | trackbacks(0) |
                松の実クッキー
                0
                  行く一月、逃げる二月、去る三月。とは、誰が最初に言ったのだろう。
                  わたしは母に教わって、毎年はじめの三ヶ月は、この言葉を噛み締める。
                  うまいこと言ったものだ。


                  ホワイトデーに西光亭のクッキーを頂いた。
                  あいくるしいリスが描かれた箱に入った、手作りの、きちんと甘いクッキー。
                  クロッキー帳を破って二つ折りにして、お皿がわりにして食べてしまう。

                  白くてちっちゃな本棚が四つある。ここから本がはみ出すときは、
                  いずれかの本を手放すことにしている。これ以上の本は持たない。
                  幸いにしてまだ三段も空きがあるのだけれど。

                  おじいちゃんの遺品のベッドに、ニュアンスの違う白色の寝具。

                  二十歳のころ大学を途中からさぼって遊びに行った神戸。
                  そのときギャラリー見つけた羊のポスターは伊勢田雄介さんの絵。

                  中学校の英語の先生がもっていたのと同じCD・MDプレイヤー。
                  最近は星野源かハナレグミのCDしかかからない。

                  窓はふたつでカーテンはどっちもくすんだピンク色。
                  発作的に買ってしまったアンティークのデスクによくあう。

                  小学生のとき買ってもらった、白い額縁のなかの三羽の小鳥の絵。
                  1,2年間欲しいと母に言い続けていたら、その店が閉店することになり、
                  ワゴンセールに出たのだ。母はよかったねと言ってそれを迷わず買ってくれた。
                  見上げないと母の顔が見えないくらい小さかったころ。
                  この絵が壁からはずされたことは以来一度もない。

                  この部屋にわたしはもうしばらくいることになった。
                  大学を出たら家も出るのだと信じるように思い込んでいたけれど、
                  いろいろなことを考えて、ここにいるのが一番良いと思った。


                  もうすぐ自分でちゃんとお金を稼げるようになる。
                  わたしはわたしのことを食べさせてあげられるお金をちゃんともつ。
                  そのことをずっと夢見てた。
                  自分の命を自分の力で永らえさせる力をもつ日がくること。
                  もちろんその力はお金だけではまるで成り立たないのだけれど、
                  自給自足の予定がいまのところないわたしには、欠かせないたいせつなもの。


                  クッキーもう1枚食べよう。

                  | nikki | 15:27 | comments(0) | trackbacks(0) |
                  旅先
                  0
                    春の気配を感じると思っていたら、今朝は雪が舞っている。
                    薄着はもうすこし先かしら。

                    最後の春休みを過ごしている。

                    中学生の頃、「いつか一緒にヨーロッパに行こう」と言い合った友達と、
                    イタリアとパリへ。8年の歳月を経て果たされる約束は甘美だった。
                    お決まりの「冷静と情熱のあいだ」のドゥオモにも登った。
                    長友選手の暮らすミラノの街も歩いた(しかしその頃長友は日本で試合をしていたらしい…)。
                    おいしいピザやお酒、すいすい飲めるエスプレッソ、朝食のクロワッサン。
                    美しい教会、寺院、鐘楼に橋。貴重な美術品の数々。
                    写実主義の油絵と宗教画は、もう金輪際見なくてもいいと思えるほどに圧倒された。
                    建造物はみな大きく、装飾的で、それらは心が追い付かないほどに
                    美しかったけれど、どうしようもなく俗っぽかった。動物的ではなく、人間的だった。
                    慎ましやかであることや、足るを知るというこころ、キリスト教ではなくて仏教のこころ、
                    自然とあわせること、きりりとした山の空気がほしくなった。

                    それで、あからさまなのだけれど、明日は高野山に行くことにした。
                    お寺に一度泊まってみたかったこともあって、せっかく余裕のある春休み、
                    京都ではなくわざわざ少し足を延ばしてでも行きたいところとして、高野山へ。
                    本は、もっていかないでおこうと思う。


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                    | nikki | 14:50 | comments(0) | trackbacks(0) |
                    生きるという名の
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                      こんにちは。これを読んでくださっているみなさん、お元気でしょうか。
                      ここ、更新頻度がものすごくのんびりになってきているね。
                      いつの間にやら年も変わり、冬も深まり、暦の上では早くも立春。

                      いろいろなものが、終わり、変わり、始まり、していく春がくる。
                      日本中で、おそらくいちばんたくさんの涙が流れるころ。


                      先日無事、卒業制作展を終えた。
                      コンセプトを決定するまでに本当にたくさん悩んでしまい、それを形にする
                      制作作業にあてる時間がいちじるしくすくなく、最後は大慌ての一月だった。

                      「生きるという名のケーキ」


                      いつも考えているのは、生きるということ。
                      生きるということの、官能的な甘さのこと。
                      やさしいこと、くるしいこと、さみしいこと、欲すること、傷めること、病むこと、死ぬこと、
                      食べること、飲むこと、眠ること、起きること、愛すること、生まれること、忘れること、
                      つくること、うしなうこと、壊すこと、守ること、甘えること、信じること、逃れること、歌うこと、
                      描くこと、書くこと、はたらくこと、知ること、伝えること、つながること、触れること、離れること、
                      ぜんぶ、ぜんぶ。
                      ぜんぶ、いとしい。あまくて、いとしい。

                      だからケーキにして、見てもらった。それだけじゃ足りないから、言葉も、添えて。

                      いろんな人が作品の前で、足をとめてくれた。
                      わたしを知るひとも、知らないひとも、その貴重な一生の時間の一部を、
                      わたしが作ったものを見るために、くれていた。
                      それを見て、地平線が見えるような広い場所に立っているような心地になった。
                      うれしいとかなしいはとありがとうはひとつの感情になった。



                      いつも大切にしていることを、好きな形で表現できて、ほんとうによかった。
                      デザイン科だけど、商業的なデザインではなかったし、どっちかというと
                      自己表現のアートにいってしまった気もする。
                      でも、「元気をもらえました、ありがとう」と言ってくださる方がいた。

                      それで、この作品をやってよかったなとも思ったけれど、もっととんで、
                      生まれてきてよかったな、と心から思った。ありがとうは、わたしの科白だったのに。




                      作品を作っている時間も、大変だ大変だとはいいつつ、ほんとうに幸せだった。
                      四年間ともにいたみんな、みんな、がんばっている姿が見れて、
                      一緒に食堂にいったり、お菓子をたべたり、ふざけたりできて、助けてくれて、
                      みんなの声がして、同じゴールにむかってそれぞれが何かを創作しているなんて、
                      なんてきらきらなんだろう。みんなのいる空気にはきれいな色が見えた。
                      ずっと卒展が終わらなかったらいいのにな、と何度も思った。

                      ここ最近はずっとずっと胸がいっぱい。
                      みぞおちのあたりに通された紐が、きゅっ!としぼられている。
                      時間に味があるのなら、甘くて、とろける。少し酸っぱい。

                      ずっとここにいたいけど、かなわないからこんなにもあまくて、きれい。



                      卒業まであとすこし。もうすこし。お別れのことばは、まだ、はやい。

                      | nikki | 13:38 | comments(2) | trackbacks(0) |
                      あいのしょうたい
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                        わたしは卒業制作の一部で、「愛」を表現したいと思っているのだけど、
                        おわかりのとおり、可視化がとても難しい。
                        人によって解釈が異なり、価値も違い、その形式も、深さも、まちまちすぎる。
                        それを人に見てもらう作品のテーマにするのは、ほんとうに難しいことだ。
                        いや、案外それはシンプル極まりないものなのかもしれない。
                        しかし単純だろうが難解だろうが、愛の可視化は、今のわたしにとってそう容易い作業ではない。



                        悶々とするわたしに、先生は、「木村の一番好きなものはなんや」と言った。
                        一番はきめられない、と言うと、
                        「自分の命に替えても存在してほしいくらいのなにか」と訊かれた。


                        「土」


                        何秒か悩んで、わたしの口から自然に出てきた答えはそれだった。
                        自分でも、びっくりしていた。けれど、すごく自然に答えていた。

                        「土と、そこに棲んでいるミミズとかダンゴムシとかカエルとか、
                         そこに根をはってのびている木や花とか、露だとか、
                         もしわたしの命と引きかえにそれが続いていくのなら、
                         ぜんぜん、命なんかくれてやってもいい」

                        とも言った。わたしが。おどろくべきことに。
                        でも先生の問い、とても上手な問いだったと思う。
                        先生は「神様みたいなこといいよるなあ」と笑ったけれど、
                        これ以上わたしがわたしを納得させられる答えはきっとほかになかった。


                        黒く、湿り気を帯びている。
                        命をはぐくみ、命を吸い、命を生み、根を支え、餌を与える。
                        わたしの想起する、愛のすがた。



                        でもこの結論を、制作に直接応用できるかと言われると、
                        ちょっと困るのだけど(!)、なんだか新鮮だった。


                        あなたの愛は、どんな姿をしているのでしょう。
                        | nikki | 23:18 | comments(4) | trackbacks(0) |
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